弱い一週間。

非常に苦しい一週間がやっと終わりましたよ。一人って言うのはこんなにつまらないもんなんですかね。
学校で一人なのがきついのは、周りの人は一人じゃないからです。自分だけが違う。集団に交じれないことに動物的な焦りを覚えてしまうのではないでしょうか。
か弱い人間一人きりで生きていくのは到底不可能というものです。だから人は集落を作った。しかし集落に馴染めないものはどうなるのでしょう。昔なら死ぬのは間違いありません。しかし現代、それも日本にいたっては「孤独で死ぬ」なんてことはありえるのでしょうか。


数学の時間が楽しい。それはみんな同じ時間に同じ場所で同じことをしているから。でもなかには携帯をいじったり、雑誌を読んだりする人がいる。彼らは教室の中において少数派であるにもかかわらず、孤独ではない。彼らが使う携帯電話には無限の世界が広がっていて、さらにそれを友達と共有しているのだ。彼らが読む雑誌は人から人へまわってきたもので、その輪の広さは顔の広さをあらわす。彼らは孤独なんかじゃなくて、むしろこの物語の主人公なんだ。
休み時間がつらい。それはみんな好き勝手に行動できるから。みんなにとって授業とは不自由。自由であれば席を離れ、友達のもとへいって会話したり、友達と別のところへいったりするかもしれない。授業終了のチャイムと同時に、今まで薄らいでいた「孤独」がはっきりと浮き彫りにされる。休み時間において、孤独であることは、学校において孤独であるということだ。そしてその学校生活は、空白によって埋められた、矛盾の塊にすぎない。全角スペース。2バイト分の価値しかない。学校生活だけではなく、今までの生活もほぼ同じものだろう。僕だって、クラスメイトだって同じ時間軸の上を進んできたはずなのに、そこにある絶対的な差、クオリティの違い。


もし僕が死んだとして、いったいなにが変わるというのだろう。死んだあとには何も残らない。スペースの後ろは、ただ真っ白。見た目ではまったくわからない。ドラッグして初めて気がつくスペースの存在。ただそれだけ。なぜそこに空白があるのか考えることはできるけれど、そこに何か意味を見出すことは誰にもできない。


現代の日本で「孤独で死ぬ」ということがないのは、もうすでに死んでいるから、なのかもしれない。