こいつはおかしいぞ。

掲示板などでよく見る流れとして、「死にたいです」→「生きたくても生きられなかった人もいるんだから生きて」というのがあると思います。これについて考えてみました。
まず、死にたいと宣言する人は何を思ってそんなことを言うのか。これはたぶん楽になりたいからではないでしょうか。よく言うじゃないですか。「悩み事も、話してみると気分が楽になるよ」って。「死にたい」なんて、普通の神経をもった人なら、日常生活で誰かに言うわけにはいきませんよね。だからネットで自分の気持ちを明かしてすっきりしたいなあ、と思うのではないでしょうか。これはいわゆる愚痴です。言うだけ言ったら勝手に満足するでしょうから、当たり障りの無い返事をしてあげればいいでしょう。
また他にも、とめてほしくて「死にたい」と言う人がいるかもしれません。こういう人はたぶんマジで死寸前だと思います。もう手元には睡眠薬がたくさん準備してあります、みたいな。僕としては非常にうざく感じるので、そうか、死んでくれ、と言いたくなりますが、死ぬ確立が非常に高いので、とめたほうがいいと思います。とめてほしいと思ってるということは、自分自身に「死にたくない」と思っている節があるからです。要するに甘えん坊ってやつですね。冒頭の流れを再現すれば、本人は満足することでしょう。
そして、死を止めようとする人はどうして止めたがるのか。特にインターネットでの出来事となると、相手は見ず知らずの人である可能性が高く、そいつが死んだところでなんのデメリットも生じないことが予想されます。それでも止めるのはどうしてか。ひとつは、おせっかいでしょう。このタイプの人間は自分が正しいと思っていることが多く、私が諭してあげる、といったノリで死を止めようとするのではないでしょうか。ここでの論点は「死」ですから、止めることはあながち間違いではなく、相談者のニーズにあっているともいえますね。
しかしもっとも多いのは、やさしさから死を止めようとする人でしょう。もし自分と親しい人が死にたがっていたら、まず死なないでほしいと思うと思います。それは「離れ離れになりたくない」というのと、「自分のせいで死なれたくない」と思う気持ちがあるからでしょう。離れ離れになりたくないというのは、そのまま、その人を失うことが惜しい、ということです。ありがちですよね。しかしインターネット上で考えてみると、これはなかなかありえないことではないでしょうか。相手はまったく知らない他人ですよ。その人を失うことによって失うことなんてありません。ではなぜ止めるのかというと、二つ目の「自分のせいで死なれたくない」という気持ちからです。死にたがっている人がいて、自分はそれを知っている。もし自分がここでそれを止めないことでこの人が死んでしまったら、なんか罪悪感が……、というね。おそらくそういうことでしょう。実際には自分は何も悪いことをしてなくても、なんとなく加害者になった気がしてしまうのがミソです。だから止めるのでしょう。これをやさしさと表現するのは、多少語弊があるかもしれませんが。


とまあ長くなりました。なんでこんなこと書いたのかわかりませんが、せっかく書いたのでそのままにしておきます。
それで、結局僕が言いたいことは何かって言うと、「生きたくても生きられなかった人もいるんだから生きて」というのは、おかしいんじゃないだろうか、ということです。
生きたくても生きられなかった人っていうのは、「生きたかった」んですよね。なのに「生きられなかった」から可哀想。じゃあ死にたい人っていうのはどうかというと、「死にたい」んですよ。そして本人のやる気次第で、「死ねる」んですよ。それなら死ねば幸せ、ハッピーエンドだと思いませんか。
しかし「生きたくても生きられなかった人もいるんだから生きて」という言葉の通りにすると、死にたい人は、死にたくても死ねなかった人になっちゃいます。おいおい、それじゃあ同じく可哀想じゃないですか。おまけに死にたい人は、生きたくても生きられなかった人とは違って、生きるか死ぬかの選択権を持ってるんです。選べるなら、望むほうを選ばせたほうが幸せだと思いませんか。
まったくおかしな助言だと思います。


ところで、もし「死にたい」って書き込んだ人がいても、完全にスルーされてたらそれはそれで面白いな、と想像してしまいました。そんな、他人に超無関心の時代がきたら、自殺者は増えるのでしょうか。そうだとしたら、今の社会は思いのほかうまく回ってるってことですよね。今の社会でも結構「他人に無関心」な社会と言われているのに。冒頭の流れは人間愛なのかもしれません。