緊急時サバイバル読本。

今日は焼きそば弁当を食べたんですが、湯きりのときに失敗してしまって熱湯が手に降り注がれました。熱かったです。
そもそも僕はお湯を入れたときにすでに何かを感じていたんです。「あ、なんかちょっと入れすぎた…?」とね。でも僕はそのとき自分の力を過信してしまっていたのです。俺は今まで数々の湯きりを難なくこなしてきた男だ。失敗などあるはずがない。と。それが今回の事件の発端になったわけなんですけどね。
湯きりを始めるとき少し違和感を感じました。あれ? いつもと違う…? とね。そう、そのとき僕は異変に気がついていたのです。でも僕は周りの環境変化についていけなかった。自分の脳内で「うまく湯きりを成功させた自分」を思い浮かべるあまり、目の前の罠に気がつかなかったのです。一度倒してしまったドミノはとどまることを知らず、ただただ倒れていくばかり。僕はカップ麺の角度をつけていき、そして…、熱湯は僕の指にかかったのでした。
しかしここが第2の分岐点でした。この分岐点である人は手を引っ込めカップ麺をぶちかまします。そう、カップ麺と戦うことに疲れ、逃げ出してしまったのです。あきらめた人間は死にます。手は引っ込めた勢いでどこかにぶつかり痛い思いをし、カップ麺完成直前でうきうきしていた気持ちは、キッチンにぐちゃぐちゃに広がった麺を前にどんぞこへと突き落とされます。しかし別の選択肢をとる人もいる。それは左手に覚えた熱をグッと我慢し、自分の満足がいくまで湯きりをしっかり行ったうえで、冷水で指を冷やすのである。
前者と後者ではカップ麺との戦いを拒みあきらめたものと、カップ麺の恐怖を十分知った上で、恐怖を活力に変え、カップ麺と戦っていったもの、そうサバイバルをしたものという違いで分けられる。一度乗り越えた恐怖は活力へと変わり、サバイバーの心には「このカップ麺を絶対においしく食べてやる」という信念がうまれる。この信念は決して折れたり曲がったりすることは無く、何が起きてもズシンと構えている存在なのだ。こうしてサバイバルを行う決意をし、その決意が何よりも硬くなったとき、サバイバーは生き残るのだ。そう、勝つのだ。
僕はどちらの道を選んだのかって? そりゃあ決まってるじゃないか。戦ったさ。僕はサバイバーになった。そして、勝ったのだ。褒美のカップ麺はこの世の何よりもおいしく、僕は生き残ったことの喜びを体全体で感じ取ったのであった。


(緊急時サバイバル読本って本買ったんですけど、難しすぎて何を言っているのかよくわかりません!)