生きることは虚しい。

自殺したい。
今、僕の人生全体でみるとほんの少しの時間でしかないこの時にのみ自殺したいと思うわけではない。恐らく僕は生涯、自殺したいと思い続けることだろう。
「一時は自殺しようと真剣に悩んだこともあったけど、自殺しなくてよかった。」
という人がいるのは何故か。それはその人に問題があるのではなくて、その人の周囲に問題があったからだ。周囲の環境は意外と変わりやすいものだ。特に学生時代においては、周囲の環境はめまぐるしく変わることだろう。そのうちで、例えば嫌な人間と距離をおけるようになって、そこで気づく。ああ自殺しなくて良かったなあ、と。
しかし自殺したいと思う人、その本人に問題があればどうだろう。人はなかなか変わりにくいものだ。三つ子の魂百まで、なんて諺もある。さらに遺伝子なんてものはどうしても変えることができないのだ。周囲の環境が変わっても自分は変わらない。良くも悪くも自分は自分である。
つきとめるところ、僕は駄目で、僕は僕が嫌いだ。自信を持つこともできない。自身を持つには、僕はあまりにも駄目だからだ。人に罵られても、「確かにそうだ、僕は駄目だからな」と思うことしかできない。もしその人に反論して、僕は駄目なんかじゃない、なんて言おうものなら、僕は自分の嘘に居たたまれなくなって、もう何も言い返せなくなる。


僕の本質には真面目なところがあると思う。
小学校の低学年のときなんかは特に、率先して教室の掃除をしたり、授業中に手を挙げたりもした。それでも年を取るにつれて、そんなことは無駄だと学習していった。まじめに掃除するやつなんていないし、クラスメートは簡単に教師の悪口を言う。僕が見る限りでは、僕の関わった先生に悪い人なんていなかったと思うし、説教する先生がいても、それは至極まともなことを説教しているようであった。でもみんな「うぜえ」とか「むかつく」とか、そんなことしか言わない。学校というのは、真面目であるということがいかに無駄であるか、ということを教えてくれる場所だ。
そんな義務教育を9年間受けて、それでもなお真面目であり続けれる人を僕は心底尊敬する。もちろん僕は適当な人間になる道を選んだ。みんながそうしてるんだもの。真面目であることはかっこ悪い。それがまるで常識のようにまかり通っていた。
おかげで僕も適当な人間になったかのように思われるが、やはり本質は真面目なんだろうと思う。教室掃除してても、うっかりすれば丁寧に、しっかり掃除してしまう。まあそれだけで真面目かどうか決めるのはどうかと思うが、とにかく僕は自分のことを真面目だと思う。
だからこそ、きっと自殺したいと思うんだろう。適当な人は自殺なんてしないよ。でも真面目だからこそ自殺できない。家族のことを考えると決して自殺なんてできるものじゃない。
こういうとき、本当に適当な人になりきれたらいいのに、と思う。